安保法案反対の「OLDs (Otoshiyori for Liberal Democracy)」に投稿されたのを読みました。皆さんに読んでいただきたくて、掲載します。私達自身の姿勢も問われていると思います。
私は国会前でこの言葉を聞いて、そして私自身が一緒に「なめんな!」と言った時、とても清々しい気持ちになりました。
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【「国民なめんな」について】
.SEALDsのコール「国民なめんな」が帝国主義的だという批判がある。
「平和と民主主義をこわすな」という訴えにも同じ批判が上がっている。
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「国民なめんなというが、国民とは日本国籍者のことを言う。在日朝鮮人をはじめとするマイノリティを無視するその運動は、まさしく帝国主義的運動ではないか」
. 「平和というが、日本の平和や繁栄が朝鮮やベトナムの戦火と無縁だったというのか、アメリカの戦争に加担したことに無自覚な平和運動が真の平和を作れるのか」
. 「民主主義をこわすなというが、日本にいつ本当の民主主義があったというのか。SEALDsは非民主的な現状を民主主義だといって現状を擁護し、変革を妨害しようとしているのだ」
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簡単にまとめればこういう批判だ。
じつにみっともない批判だと思う。
ちょっと長くなるけれど、自分の意見をまとめておきたい。
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まず、SEALDsという団体の性格だが、彼らは学生の立場にたって同じ学生に運動参加を呼び掛ける目的で結成された。
彼らの姿勢は、「俺たち、おかしいことにおかしいと言っていいんですよ」というスピーチに典型的に表れている。
おかしいことにおかしいともいえない現状、そのことが不自然だとも感じなくされている現状、学生たちをおおう、体制批判がタブーであるというような雰囲気。
そういった重苦しさをよく体感しているがゆえに、彼らは「おかしいと言っていいんですよ」とスピーチした。
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「おかしいぞ」でもなく、「おかしいと叫ぼう」でもなく、「おかしいと言っていいんですよ」の訴えから、彼らは始めなければならなかった。
そこから始めたからこそ、彼らは成功しつつあるのだ。
そしてまた、学生が学生に呼びかけることに特化したから成功したともいえる。
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SEALDsは反安保運動全体の代表でもなければ、世代を超えた存在でもない。
彼らに希望を見出すのは勝手だが(私も希望を見出しているが)、しかし彼らは四次元ポケットから「成功」を取り出せるドラえもんではないし、万能のヒーローでもない。
彼らに憑依してはならない。
彼ら以外の人々は、自分たちの運動に責任をもてばいいし、もつべきなのだ。
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「たたかっていいんですよ」とよびかけることから始めるしかなかったという、この現状に責任を問われるべきなのは、そもそも誰なのだ、私たち先行世代ではないか。
青年層がどうしてそこまで追い込まれなくてはならなかったのだ。
そのことに思いを致さず、これまでうまくいかなかった「正しい思想」や 「正しい運動の仕方」を彼らに吹き込んでどうするのだ。
体制側にしてやられてここまで押し込まれた私たちが、どうして若者にえらそうに説教できるのだ。
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日本が帝国主義であるかどうかなど、いまの局面ではどうでもよいことだ。
SEALDsの運動は、「今までみんなが守ってきた社会のルールを平然と壊す政治家を、我々は許さない」という根源的な怒り(by山崎雅弘)に支えられている。
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いましなければならないのは、安保法制を廃案にすることなのだ。
日本の現状を解釈することより、日本の現状を変えることなのだ。
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さて「国民なめんな」だ。
日本が戦争する国になれば、たとえばテロ被害のリスクは在日外国人も等しくこうむるのだから、国民ではない在日外国人も運動の主体になるべきではないのだろうか。
運動の在り方としてはそのとおりだと思う。
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けれども「国民なめんな」のコールはそういった運動のあり方とは別の方向で受け止める必要があるのではないかと私は思う。
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反安保運動はカンパニア運動ではない。
お気に入りのスローガンを叫んで胸をすっとさせていればよい運動ではない。
主権国家の権力行使の在り方を問う運動だ。
この面では主権者たる国民が主体となるしかない。
法的に主権を行使できるのは国民だけなのだから。.
政治・政策には権力的な面もあるし、文化など非権力的な面もある。
非権力的な面には在日外国人も主体となって関わることが出来るし、そうすべきだ。
しかし権力的な面については、法的に主体となれるのは国民だけだし、結果責任を負えるのも国民だけなのだ。
だから「国民なめんな」でよいのだ。
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日本国民は選挙を通じて政府にその意思を強制してきた(はずだ)。
政府は国民の意思に従う義務がある。
政府は国民の意思に忠実に従ってきた(はずだ)。
民主主義を標榜する以上、この原理を政府は否定できない。
それゆえ、この原理は武器として有効だ。
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これまでの政府の意思(それは国民の意思だ)を一内閣が勝手に変更するとは何事か、「国民なめんな」。
この訴えは民主主義原理として正しいし、反権力思想のない学生にも理解できて納得を得やすい、よくできたコールだと思う。
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法的にはともかく、理念的には在日外国人も主権者であるべきだという考え方もあろう。
私もその考えに賛成だ。
ところでそう思う人は「国民なめんな」のコールに違和感を覚えないはずだ。
国民の中に自分も含まれていると自覚しているはずだから。
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中には反権力意識が強い人がいて、「国民」といえばあたかも個人が国に包摂された概念であるかのように受け止め、抵抗を感じることもあるだろう。
しかし、さきに述べたとおり、国民とは受け身ではなく積極的に国政に関与し政府に言うことを聞かせる主権者の謂いであって、主体的な存在なのだ。
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考えてみよう、運動はプロモーションだ。
受容されない訴えは力を持たない。
理念として正しく、かつプロモーションとして成功させるやり方が、もっともよい方法なのだ。
反権力的に聞こえないけれど、しっかりと権力に対峙している「国民なめんな」は素晴らしいコールだと思う。
私はいつでも思いっきり叫んでやる、「国民なめんな」と。
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