以上、愚思・愚考につき失礼申し上げます。
[66歳、男性、昨年サラリーマンを卒業し、現在無職(フリーランスと自称)]
*バッジプロジェクトから
ブログに**様の手紙の一部分の「つなぐ」事の考察の部分を紹介させて戴きたいのですが、如何でしょうか?
*或る男性から
誤解を避けていただくために、あえて愚考をお伝えします。
文中、「危機感をいだくいくつものムラビトがいる。」は、原子村ほかにいるムラビトです。
もちろん、わたしもある村のムラビトであり、すべてのヒトは何らかのムラビトに他ならい、と考えます。
そのムラビトをつなぎ、ムラビトのきずなとなるものがヒト・モノ・カネである、と考えます。
そのいっさいのカネ・モノにとらわれずに、
わたしたちが現在あるところのいかなる村のムラビトであっても、各自のこころに命じられ、ヒトとヒトをつなぎ、つながれるものがある。
とすれば、そのひとつが脱原発である、ということです。
しかし、ムラビトはヒト・モノ・カネのつながりではなく、とくにカネ・モノを捨ててつながりを断つことはなかなか厳しい、ということです。
そこのつながりを断たなければ、脱原発等の問題に本当の意味でつながることはむずかしい、というのがわたしの率直な感慨であります。
(幕末の藩士たちがおこなった脱藩ということは、そういうことではないでしょうか)。
広島、長崎の被爆を歴史的な記憶をとどめておきながら原発には全くの無関心、ただただ電化生活を享受してきただけのわたしたちに責任があります。
原発責任、護憲責任、沖縄責任等は、ただただ無責任に持続させていくための可能性ではなく、
わたしたちを子、その子、その子の子へと未来の可能性につなぐことへの責任である、と思うのです。
以上、えらそうなことを言いながら何にもできないわたしです(お許しください)。
というように、感じ考えているヒトがたくさんいるはずです。
そこが本(もと)です。上からではありません、下から積み上げて、あるときは一部が崩れながらもひとつひとつ、伝え、繋いでいく。
・・・・・以下略。
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