そこで地元で保母さんをしている女性と知り合い、毎日一緒に写真洗浄をし続けました。
私達夫婦はずうっと小さな子ども達と関わる活動をしていたので、話も合うと思っていた或る日、話しかけても応えない彼女に気付きフッと顔を見ると、涙を一生懸命堪えている、でも溢れている涙の彼女でした。
ただ、もう「私は何しに来ているんだろう!?」それだけが私の中にありました。
それから1ヶ月後南相馬に出かけ、また彼女と写真洗浄を続けました。
親しくなり、「南相馬で“原発はいらない”と言いにくい」と東京で開かれるデモに一緒に参加しました。
その時の彼女はご夫婦で共に「南相馬から」と書かれた紙を背中にかけて現れたのです、「福島の苦しみと悲しみを伝えたい。何処から来たかを書かないと分からないでしょ」と。
彼女はデモの先頭に立つ福島の人達の中に入らず、一般の人の中に私達と一緒に混じりデモへ。
彼女達に話しかける人が沢山いました。丁寧に一人一人と話をする彼女をただただ見つめ続けていました。
「地元の新聞には限られた情報しか載っていない」との言葉に新聞の原発関係の切り抜きを送る約束をしました。
その時にそれ以外5月のあの涙に応える術がなかったからです。いいえ、新聞の切り抜きを週に1回送る事が応える事かどうかも未だに分からないで続けています。
それから他の活動で今の仲間と知り合いました。
親しく話すようになった或る日の電話で仲間が「公務員が原発いらないのバッジや車にステッカーを貼ってくれてたら、自分達も少しは声が出せるのに・・」と言うので、私は「誰かがしてくれるのを待っていても仕方ない。自分から動かなきゃ。」と言い、慌てて「私も手伝うから!」と付け加えました。前年の5月の涙がいつも頭にこびりついていましたから。心の中では“シマッタ!”と思っていたにもかかわらず・・、ズルイです。
福島バッジプロジェクトはこうして福島二人+千葉一人になりました。
バッジのデザインは南相馬の彼女の想いを形にしようと、FUKUSHIMAというロゴを入れたバッジにし、INJAPANバッジと対比させました。このバッジを着けてお互いにコミュニケーションを取って欲しいという切な願いを込めました。私も彼女のようにきちんと向き合いたいと思いました。
それでも福島とそれ以外の日本がまるで別個の存在のように別々に脱原発に向かって歩いているような気がする時があります。そもそも私が福島と共にいるのか?
答えは[・・・]なのです。考えれば考えるほど、動けば動くほど[・・・・・・]がたくさん増えていくだけです。
その中で毎週金曜日の国会の抗議行動は個人が参加しているからか、福島の方達がいらっしゃるのが分かるからか、「共にいるのかもしれない」と思う時が時々あります。
でも、大きな集会で団体の方達に声かけしている時になんだか余計に一人ぼっちになってしまう感覚に襲われる事が時にはあり、苦しくなります。
そういう中で3月9日の「つながろうフクシマ!さようなら原発大集会」は、バッジプロジェクトと私への問いかけに映りました。“つながる”事はお互いに個人的に話をする事から始まる、既に話をした人達はもっと深まった話をすれば良い、そういう機会を福島バッジプロジェクトで作りたいと思いました。200万人の福島県人が200万人の県外人と話をし心を通わせたら、400万人の大きな一つの塊になり、ゴロンゴロンと動けると思いました。
次の「3月9日の報告」を読んでいただけますか?3月9日当日の報告です。
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