畏れ多くも、そこらへんに転がっている名もない老女が一国の象徴と一国の
リーダーを比べる事して良いのか?とも思うけど、あまりにも歴然としていて。
「この勝負あった!」と言ってみたい・・勝負はずっと前からあったのですけど。
広島でも長崎でも昨年とほほ同じメッセージをただ読んだだけの一国の首相、
被爆者の「納得しません」の言葉に「見解の相違」と一言言った一国の首相を
見ていると、天皇、皇后の行動を思い出してしまいます。
朝日新聞8月5日夕刊の池澤夏樹さんのエッセイの一部コピーします。
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http://digital.asahi.com/articles/DA3S11285345.html・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・
七月二十二日、今上と皇后の両陛下は宮城県登米市にある国立の
ハンセン病療養所「東北新生園」を訪れられた。これで全国に十四カ所ある
療養所すべての元患者に会われたことになる。
六月には沖縄に行って、沈没した学童疎開船「対馬丸」の記念館を
訪れられた。戦争で死んだ子供たちを弔い、今も戦争の荷を負う沖縄の
人々の声を聞かれた。
昨年の十月には水俣に行って患者たちに会われている。
東日本大震災については直後から何度となく避難所を訪問して被災した
人たちを慰問された。
これはどういうことだろう。我々は、史上かつて例のない新しい天皇の姿を
見ているのではないだろうか。
日本国憲法のもとで天皇にはいかなる政治権力もない。時の政府の政策に
ついてコメントしない。折に触れての短い「お言葉」以外には思いを
公言されることはない。行政の担当者に鋭い質問を発しても、形ばかりの
ぬるい回答への感想は口にされない。
つまり、天皇は言論という道具を奪われている。
しかしこの国に生きる一人として、思うところは多々あるだろう。その思いを
言論で表すことができないが行動で表すことはできる。
国民はそれを読み解くことができる。
*
八十歳の今上と七十九歳の皇后が頻繁に、熱心に、日本国中を
走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?
みな弱者なのだ。
責任なきままに不幸な人生を強いられた者たち。何もわからないうちに船に
乗せられて見知らぬ内地に運ばれる途中の海で溺れて死んだ八百名近い
子供たち、日々の糧として魚を食べていて辛い病気になった漁民、津波に
襲われて家族と住居を失ったまま支援も薄い被災者。
今の日本では強者の声ばかりが耳に響く。それにすり寄って利を得ようと
いう連中のふるまいも見苦しい。経済原理だけの視野狭窄(きょうさく)に
陥った人たちがどんどんことを決めているから、強者はいよいよ強くなり
弱者はひたすら惨めになる。
強者は必ず弱者を生む。いや、ことは相対的であって、弱者がいなければ
強者は存在し得ない。水俣ではチッソと国家が強すぎた分だけ漁民は
弱すぎた。ぼくも含めて国民はたぶん無自覚なままにチッソの側に
いたのだろう。
今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の
傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。
お二人に実権はない。いかなる行政的な指示も出されない。
もちろん病気が治るわけでもない。
しかしこれほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が
戴(いただ)いたことはなかった。
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